クイーンと40代の青春について
クイーンについて。
たぶん、クイーンに語ることは、きっと、自分の青春を語ることだと思う。それは、クイーンに夢中になった青春っていう意味じゃない。きっと、それは逆で、クイーンにハマりきれない自分の青春史、という意味だ。
40代の男性が、メジャーシーンから離れた音楽にハマるとき、そこには文脈がある。たとえば、メタル。「誰も知らない、反逆の音楽」とかね。たとえば、ハードロックは、「メジャーポップスじゃ表現しないメロディー」。プログレなら「この複雑な進行は、俺しかわからない」とか。なんでもいい。そこには、青春の歪んだ、といってもいいし、自己肥大的な自負に似た何かがあった。
そんときに、なかなかクイーンにハマるっていうのは難しかった。なぜなら、大衆主義をとるというのが、なかなか青春男性には困難だから。「大衆はわかってないけど、俺だけはわかっている」というポーズが必要なんだ。
クイーンは、きっと、一周まわって音楽の良さを知る人しかわからなかった。あとは、純粋なファン。
ということで、私は映画「ボヘミアンラプソディー」のヒットを、ひねくれて考えている。つまり、あのヒットは、当時の素直になれなかった40代に向けて、「でも、社会って、大変だっただろ」という鎮魂歌なんだ。「マイナー路線は疲れたろ。結局は、メジャーにウケるしかないんだよ。でも、メジャーも辛いんだぜ。この人生の辛さは、いまなら共有できるだろ」という、時代をまたいだ、望郷歌になっている。
そこで、と私は振り返る。これまで、私は比較的マイナーな領域で奮闘してきた。その一方で、メジャー領域で奮闘してきたひとたち。
ボヘミアンとは、行き場なき人たちのこと。それは、もしかすると、全員を指しているのではないだろうか。その意味で、ボヘミアンのラプソディー=叙事詩、である意味がわかってくる。
この映画は、きっと、人生で挑戦して奮闘してきた私たちの映画なんだ。