官僚的な調達部門の壊し方(坂口孝則)
一部の人の怒りを買うかもしれない。でも、某所で書いた原稿を再掲しておきたい。というのも、何か私の遭った事象はいくつかの企業で共通しているように思えるからだ。
ある大阪の調達部門に訪問することになった。どんな仕事を依頼されるのだろう。その企業のことだ。きっと先端の取り組みをしようとしているに違いない。私はドキドキしていた。
初訪問の企業で緊張するのは私の常だけれど、とくに今回は、そのビルの重厚さに緊張の度合いは高まった。受付に並ぶ多数のひとたち。きっと彼らも、その企業に売上と成長を求めてやってきているに違いない。受付嬢が対応してくれた。しかし、なんともいえない違和感。来客が多すぎるのだろうか。ぶっきらぼうな対応だった。でも、これも成長企業にはありがちなことなのかもしれない。
応接室に通され、担当者がやってきた。10分ほど遅れていた。ただ、これもしかたがないことかもしれない。多忙なのだろう。そのあと、丁寧に依頼仕事の内容を聞かされた。それは既存のコンサルティングとはいえず、かなり
ハードルが高いものだったので、一度検討させてくれるように頼んだ。
ところで、この打ち合せで何度も違和感を抱かずにいられなかった。
一つ目。担当者に依頼事項について、突っ込んだ質問をすると、「それは、これに書かれている情報がすべてです」と依頼内容を記した資料を繰り返すだけだった。ほんとうに私に仕事を頼みたいのだろうか? 他社にも依頼しているのですか、と訊くと、「それもなんともいえません」と。そして、何より担当者が疲れきっているように思えた。
二つ目。打ち合わせ中に担当者の携帯に電話がかかってきた。担当者は「いまお客さんと話していまして」と断ってくれたが、相手はずっと話し続けた。私が待たされた時間、約7分。何かわからないけれど、誰かもが、自分のことだけに精一杯だった。
打ち合わせのあと、担当者は会議室の入り口で「ここで失礼します」と走って帰っていった。受付嬢に、入館票をどこに返却すればいいかと質問しようとすると、来客対応で忙しいのか、無言で指をさされた。指の先には「返却
箱」と書かれていた。
もちろん、一つひとつはくだらないことかもしれない。取るに足りないことと笑えばいいだろう。しかし、だけど、私はこの違和を拭い去ることができず、けっきょくはその企業に再度訪問することは止めた(相手からフォローもなかった)。この選択は正しかったのだろうか。成長企業に腰巾着のように同伴することが最善策だったのだろうか。
これは成長企業だけではないかもしれない。とくに、かつて栄華をほこった会社の社員からは、おなじような傾向が見て取れる。自由闊達のイメージを喧伝している企業の社員からは、自由闊達など感じられず、悪しき感傷主義
に染まっている様子が感じられたことは一度や二度ではない。取引先には過大な要求をするくせに、自分自身が襟を正すことはない。きっとこれは、他者から批判されるという、健全な関係を構築していないからだろう。
前述の会社に戻ろう。この会社を示す言葉は、のっぺらぼう、だった。それは個性が感じられない、という意味だけではない。会社が触れ合う対象は、一人ひとりの営業マンであり、一人ひとりの企画マンであり、一人ひとりの
人間であるはずだ。しかし、他社と他者を単なる取引先とみなすとき、そこに固有性がさっぱりと漂白されてしまう。何かを依頼すること、何かの仕事を進めること。それらが、すべて「効率的に素早く処理する」だけの対象と
なってしまったとき、崩壊がはじまる。
自社の社員や、取引先の一人ひとりは、どのような考えをもっているのか。そして、ビジネスという場でありながら、偶然にも出会った奇跡を喜ぶ真摯さはあるだろうか。
官僚主義、単なる上意下達、数字だけを求める思考、他者への敬意の欠如。悪しき風潮は、たやすく個人を変えてゆく。新人のころの想いは消えはて、いつかしら、会社の空気(by 山本七平)に支配され、いつのまにか体にま
で染みてしまう。しかも、それが、成長企業であってもだ。どうすればいいのだろうか。
「空気の研究」を書いた山本七平は、「水をさす」と表現した。空気の支配にたいして水をさすこと。この場合の水とはなんだろうか。自分を貫くこと以外にない。ずっと繰り返された指摘だけれど、まわりに流されず、信じる
ことをやる。まわりが空気に流されていても、自分だけは真実を探し続け、学び続け、目の前の半径3メートルくらいから変えてゆくこと。それしかない。会社全体を変えようとしてもうまくいかない。しかし、自分の目の前の
業務であれば変えることはできる。そのような些細な改善の積み上げからしか、大きな変化などありえない。
ただし、立ち位置が決まらなければ、その官僚主義などの悪しき風潮はすぐにあなたを包みはじめるだろう。それをいかにして廃していくか。これは自分自身にたいするメッセージでもある。私はどこまでも自分を確立しながら
生きていくことができるだろうか。
それを考えていきたいと思う。そして、考え続けることが、きっと「水をさす」ことにもつながるのだと信じて。少なくとも、向上意識の高いひとを私は全力で支援していく。