イチロー選手は意志が弱い

先日、みずみずしい感覚に驚いたので書いておきます。ある子どもと話していると、「野球選手のイチローって、意志が弱いんだね」といっていました。イチローさんは一般的に、意志が異常なほど強く、だからこそあのストイックな練習を重ねている、というのが評価でしょう。

しかし、その子どもは意志が弱いといっていた。

その子どもが発言する前、「ダイエットに失敗するひとは、食べたい欲求に抗えずに、どうしても食べてしまう」と周囲の大人がいっていました。言葉を替えれば、「ダイエット=意志」と「食べたい=欲求」といえるかもしれません。

すると、その子どもは、「それならば」と「野球選手のイチローって、意志が弱いんだね」と続けました。その子どもからすると、イチローさんは、「プロ野球を続けたい」という欲求に抗えずに、ずっと練習を重ねてしまう、意志の弱いひとに思えたというわけです。

もちろん大人たちの反論はわかります。しかし、私は考えるに、このようなみずみずしい感覚を、いきなり否定すべきではないのではないでしょうか。

通常は、欲求とはどちらかというと動物的で低次元で、意志は理知的で高次のものと考えられがちです。しかし、私たちの文化装置が、勝手に、「ダイエットは高次で、食べてしまうのは低次の行為」と決めてしまっているだけとも考えられる。

その子どもが「イチロー選手は休みたいという意志が弱く、ついつい欲望のまま練習をしてしまう」といったとしたら、その正しさとあるいは誤謬はどこにあるのか。こういう話をすると、「なに言ってるんだ。あんな偉人にたいして失礼だろう」と子どもに怒ってしまう大人がいます。違うんですよ。そういうレベルの話じゃないんです。

実は、この問題は自由意志に関わる話です。ただ、今日の段階では、そのような難しい話には展開させません。単に、物事は、解釈しだいでさまざまな側面をもっている、というていどにおさえておきたいと思います。

ところで、それでもなお、普通ならば先の子どもに反論したくなると思います。「ちがう、イチローさんは、意志が弱いはずはない」と。ただ、それはすでに、定義の問題として入れ子の構造になっているのですが……。もし、それでもなお、反論したくなる場合には、その理由がなんなのかを考え抜くのはひとつの訓練になるでしょう。

ただ、ここで強調したいのは、ビジネスでも、通常、なんの疑問もなく使用している言葉の定義を疑ってみる重要性。私は、子どもの感覚を批判するのではなく、はっとさせられる思考のヒントに使いたいと思うのです。

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