1章-9 モチベーションゼロの仕事術

思想が勝利を求めて闘ったことさえわからない。闘った痕跡すらない。これこそ完璧な勝利だ。いまひとびとは、やる気やモチベーションによって仕事をなすべきだと信じている。なぜ、ひとびとはやる気とモチベーションを勝利させたのか。おそらく、それはそれ以外に選択肢がなかったからだ。経済環境が落ち込み、企業成績も落ち込み、かといって会社内部でのノルマが軽減されるわけではない。そうしたときに、ひとびとが騅逝かぬ現状を合理的に説明するために、理由を自分内部のやる気やモチベーションに求め始めた。そこに理由を求める以外にすがるものがなかったのだ。

私は、この合理化に必ずしも反対ではない。たとえどんな「でっちあげた」理由であっても、人生の局面において、それを信じて生きるしかないときはたしかにある。仕事がうまくいかない、仕事の成果があがらない。そのようなときに、モチベーションをあげればいいはずだ、と信じることしか残されていないときもあるだろう。

ただ、ここで問題なのは、自分の焦点が仕事の改善そのものではなく、心の持ちようにあてられることだ。世の中の「成功法則」や「モチベーションアップ策」や「ポジティブシンキング」のほとんどが、心の持ちようを強調し、具体的な仕事の改善策をあげず「目標さえ持てば、おのずと仕事の改善策を見つけることができる」と逃げている。やるべきことは目の前の具体的な仕事を少しでも進めることではなく、心と気持ちを変えることだとする教義は、ひとびとにある種の安堵を与える。なぜなら自己啓発や自己変革こそが必要であれば、変えるべきものは自分の心だけだからだ。

そして、やる気やモチベーションは持つべきものであり、持たないことは忌避されてきた。ほんとうは誰だってやる気やモチベーションを常に持ち続けているわけでもないのに、それを持ち続けているように強制され、あからさまにそれらを持たないひとは「かわいそうなひと」に転化していった。自己愛の裏返しとしての、他者へやる気やモチベーションを持つことの強制。自己愛の本質は、他者への軽蔑だ、と私は思う。

ただ、「モチベーションを持っていない自分」を肯定するほどには強くなれないのだろうか。モチベーションを持たない前提で、「とはいえ仕事はせねばならない」と開き直る程度の強さは持てないのだろうか。

ここで考えておかねばならないのは、ひとびとが「モチベーション」「やりがい」「夢」を強制されただけではなく、自ら求めた側面もあることだ。

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