頭脳警察 生配信ライブ(6月28日)

・6月28日「頭脳警察 生配信ライブ」

すぐれたアーティストは全身で予言的なのかもしれない。

私は、6月28日「頭脳警察 生配信ライブ」を見ていた。「赤軍兵士の詩」、「R★E★D」、そして「戦士のバラード」、「コミック雑誌なんかいらない」と続くステージは、ロックという音楽には不釣り合いかもしれないが、感動的だった。

俺たちの地球が食い荒らされて、疲れた太陽が登るから、俺たちはゲロみたいに出ていった

時代を彩る曲というのは、きっとその時代の無意識が封印されているに違いない。そして、かつての名曲がふたたび人の感動させるとき、おそらく 時代背景が類似しているんだろう。

もちろん、頭脳警察・PANTAさんが「R★E★D」を作ったときに令和の現状を予期していたとは思わない。ただ、歌詞を見ると、いまの惨状を描いているようではないか。

自分の平和のために、他人に血を流させる、お返しはただ、愛の一言だけさ

米国のトランプ大統領が「壁を作れ」といったとき、世界中のインテリは批判した。しかし、コロナ禍においては、一斉に「壁を作れ」と誰もが賛成した。経済”戦争”は肯定され、片隅で困窮するひとたちのことを誰も気にもしない。

ロック好きは、本質的なグローバリストにほかならない。ロックはイギリスから生まれたが、その源流のブルースはアメリカから生じ、さらに、ブルースはアフリカの哀歌にルーツをもつ。世界の文化が多重にふれあい生じる。だからこそ、ロックは本質的、というよりも、定義上、自由を制限する体制に対抗せざるをえない。

そうしているあいだに、「ふざけるんじゃねえよ」がはじまった。

みんな俺に手錠をかけたがるのさ、ふざけるんじゃねえよ、動物じゃねえんだぜ

大げさにいえば、私は、これは国家が国民を動物かのように管理することへの対抗にも聞こえたし、さらにいえば、統計として処理される私たちの現状に「ふざけるんんじゃねえよ」と叫んでいるようにも聞こえた。

なるほど、統計上は、私たちは確率論で規定される存在なのかもしれない。「来年も桜は咲くから、今年は行動をやめましょう」と誰かはいう。正論かもしれないが、来年の桜を見ることができない人たちはたくさんいる。99%の人間にとって来年も桜は見られるが、私たちは統計上のデータではない。その1%のひとたちが桜を見ながら人生に思いを馳せる機会に、私たちは想いを寄せるべきではないか。私たちは統計の数字ではなく、一人の人間であり、その、誰でもなさこそが文化を作ってきた。

・セルアウトと永遠の反逆者

私も40代になってしまったからだろうか。ライブハウスにいると、しばし人生そのものを感じる。

長年、聴いてきたアーティストたちは、意固地なほど自己を表現してきた時代を経て、いつしか、川のような時代の流れに身を任せるようになってくる。それは、成熟や、成長といわれるものなのかもしれない。苦悩と絶望と怒りを充満させていたアーティストは、いつの間にかそれらを忘却して、まるで私に彼岸を示してくれる。

「いや、結局メジャーシーンに魂を売って、セルアウトしなけりゃ食えないってわけよ」
「いや、いつまでも反逆したって仕方がないでしょ」
「いや、つまり、もうメッセージソングなんて社会に受け入れられないわけよ」

といった諦観にも似た、”大人”の意見が聞こえてくる。たしかにそれが正しいんだろう。私みたいに、カウンターとしての音楽なんてことを考えている人間の敗北は明らかだ。いつだってメジャーや大衆と添い寝する態度こそが商業的には正しいに違いない。

しかし、それでいいのだろうかーー。

PANTAさんは、その答えを提示してくれたわけではない。しかし、歌っている姿は、永遠の反逆者を感じさせた。

・「コミック雑誌なんかいらない」

そうしているうちに、「コミック雑誌なんかいらない」がはじまった。

俺にはコミック雑誌なんかいらない、俺のまわりは漫画だから

コミック雑誌が全盛期だからこそ、そんな愉悦を超えた満足があるという逆説。不意に私は、この”コミック雑誌”が”ライブハウス”しか要らない、というふうに感じた。「俺にはライブハウスなんかいらない、俺のまわりに音楽が溢れているから」というようにも。もちろんこれは曲解にすぎない。

というのも、現在、ライブハウスとアーティストが困窮する時代といわれる。しかし、これまでライブハウスはアーティストに集客を頼ってきたのではなかったか。ライブハウスの場所の魅力を磨き上げずに、「アーティストが演奏するなら、どのハコでも同じ」といった状況を導いていなかっただろうか。

自分の不合理で不条理な体験があるとする。しかし、時が経って、しばらくすると、その体験にも自分史的な意味があったと解釈することができる。そして、その意味の再解釈は自分の経験そのものを再肯定させてくれる。

PANTAさんの人生には、さまざまな不合理で不条理な体験があったんだろう。いまはコロナ禍が襲っている。「戦士のバラード」がある。

倒れたら、夢をみればいい

と永遠なる闘いを歌った。私は不意に胸を衝かれた。思うに、PANTAさんが歌いたかったのは、けっきょくのところ、このことではなかっただろうか。”倒れたら、夢をみればいい”。

もしかすると、私たちの前には、騅逝かない事態が舞い降りるかもしれない。しかし、人生に希望を抱くことはできるのだ、と。

努力もせずに給付金だけを求めるひとたち。彼らはロックだろうか。その対比かのように、PANTAさんは70代になっても、たしかに全身でロックだった。誰よりもロックだった。これまで誰も成し遂げていない反逆を声という武器で実現しているかのようだった。そして、私は勝手ながら、明日からの希望をもらったように思う。

私がロックというものの個人的意義があるとすればーーそのような形としてしか、私はもう信じることができない。

あわせて読みたい