映画「ジョーカー」の感想
映画「ジョーカー」を観た。絶望的な映画である。
主人公はアーサーで、精神病を患わっている。そして、母親と二人暮らしで、ピエロの仕事に携わっている。孤独と貧困が、これでもかと描かれる。
そのなかで、善人のアーサーは、なんとかコメディアンの仕事でひとびとを笑わせようとする。しかし、その精神疾患ゆえになかなか上手くいかない。そのうち、アーサーは、自己の生まれを知り、そして、世界にルサンチマンを抱くようになる。
たまたまテレビ番組に注目され、そこで、彼はジョーカーと紹介される。彼=ジョーカーは、テレビ番組の出演を、世の中への復讐する機会にと利用しようとする。
それがどうなるかは映画を観ていただくしかない。しかし、視聴後は、奇妙なほどの衝動と、そして世の中の不条理に包まれる。
ところで、いくつか思ったことを書いておきたい。
ジョーカーは狂人であると映画の感想を読んだ。それは違う。むしろ、狂わなさのなかで葛藤しているのが私の感想だ。ジョーカーは大衆と同じ感覚のなかで悩んでいる。彼は、つねに「誰もが自分を無視する」と悩んでいる。なぜ狂人であれば、他者の価値観のなかに生きているのだろうか!
彼は、骨身にしみるまで、大衆の価値観のなかにいる。誰かにかまってほしい。誰かに気づいてほしい、金がほしい、愛情がほしい、安息の場をほしい……。その常識人的すぎる感覚と、現状のギャップのなかで呻吟するのだ。
これは格差社会とか、富むものと貧しきものの対比ではない。寂しさに包まれ、孤独を許容できない、大衆の投影である。
この映画で興味深いのは、観るものを追い込むような音楽である。絶望に向かって減衰する、ジョーカーの行動を肯定するかのような緊張に満ちた音楽は、突然にシーンとともに、人生が終わったように止まる。未来につながるものを感じさせない。希望も無いかのような圧迫感に襲われる。
ジョーカーのもっていた、愛も希望も、どちらも、今いるところから自分を別の場所へ連れて行く。それは甘いだけのはずもなく、求めただけ、手に入れられなかった現実に気づくと、悲しい味だけが残る。
人生を現時点から振り返っていくと、かつて抱いた夢のほとんどが現実にならず、消え去っていることに気づく。きっと、人生のいたずらが、その夢を、根こそぎどこかへ持っていったのだろう。
そして、輝きのない現在だけが残った今。私たちは、何を希求して生きることができるだろうか。そして、何を望みに闘うことができるだろうか。それとも私たちは、失われたものを見つめ、老いていくしかないのだろうか。
映画「ジョーカー」は、生きるすべてのものに絶望的な問いを投げかけている。