仕事が嫌いなあなただからこそ上手くいく(坂口孝則)

以前、渋谷の某外資系企業で研修を実施しました。集合研修のあとにいつも思いますが、私は話がうまくありません。もっと上手く話せたはずです。そして、もっと上手く導けたはずです。事実はどうでしょうか。たとえば、私は某研修会社のアンケート結果によると、これまでの10年間でもっとも参加者評価の高い講師のようです。その意味では、私の心配は杞憂でしかありません。ただ、私は納得できません。もっと上手く講義できたはずだからです。研修会社のひとたちは「そんな謙遜しないでください。他の誰よりも評価が高いのですから」いってくれますが、素直に信じられません。

まず、講師というのは高評価にしかなりません。というのも、評価する側からしたら、「高評価を与えて無難に済ます」か「低評価を与え嫌われる」かを比べたら、誰だって前者を選びますよね。それに、一度お話してしまったら、低評価しづらいはずです。よって、基本的には、講師というのは高評価にしかならないはずなのですよ。だから、講師側は必要以上に、謙遜するべきです。

講師はそこで満足してはいけません。満足していただく状況が普通であれば、講師はせめて自分だけでも謙遜しておくべきなのです。そうでなければ、大学教授のように、自己満足的な講義になってしまいます。

これをかなり飛躍させて、「上司と部下」の関係はどうでしょうか。上司というのも、ほとんどの場合、批判されません。だって、みなさん「あんた年とってるだけだな」と批判されたことないでしょう? 部下というのは、基本的な構造として、上司を肯定的にとらえます。だからといって、自分自身が上司として優れているかというと別問題なのです。

では、講師であっても、上司であっても、どうすればいいか。私は抽象的ながら、こう考えています。知識体系には三つがあります。「思想」「マニュアル」「ツール」です。講師は、「ツール」を使って、本来の思想を伝えねばなりません。能書きだけ、思想だけではなく、具体的なツールを伝えるのです。そして、そのツールをいかに納得していただくかを、講師としての自分自身の評価基準としたいと私は思っています。その納得度を自分自身の講義評価としています。

そして、その納得度とは、終わりがありません。おそらく上司もそうでしょう。能書きだけではなく、具体的なツールを部下にいかに伝え、いかに納得してもらうか。それは終わりなき道程です。私は、伝える側として終わりがないほうが、両者(聞く側・教える側)のためだと思っています。これを教えたら大丈夫、という安心感こそが、もっともくだらなく、成長を妨げるものです。

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