調達・購買の仕事で泣いてみよう!

そのバイヤーは、仕事のすべてに熱中できない男性だった。

日々の納期フォローは、元は生産管理のデタラメさからきたものだ。それをなぜ俺が交渉せねばならないのだ。価格交渉だってつまらない。なんで自分が決定したわけでもない製品の交渉をしなければいけないんだ。毎年のコスト低減だって……。この仕事の不条理さにいつもイヤになっていた。

もちろん、そんな仕事に熱中できるわけはない。

彼は、上司との定期面談のときに、今の仕事に不満を感じていることと、「辞めることも考えています」ということを伝えた。上司はなんとか説得を試みたものの、熱意のないその部下を説得することをやめてしまった。

「私はこんなことをするために会社にいるんじゃないと思うんです」。それが彼の口癖だった。毎日流れてくる伝票。それを画面に転記しては、サプライヤーのコードを入力する。見積りが届けば、適当に交渉して、その金額をシステムに入力する。どこにも感動のない仕事。そして単調な毎日。そのすべてが、「こんなことをするために会社にいるんじゃない」と思わせる源になっていた。

もちろん、自分に能力がないことはわかっていた。何年か、この調達・購買という仕事を経験したものの、スキルがないこともわかっている。今以上の年収で転職することも難しいだろう。だから、ほんとうならば、もうちょっと頑張りたい。しかし、どうやっても、この「こんなことをするために会社にいるんじゃない」という思いが頭をよぎってしまう。

あるときのことだった。

彼が大学時代の友人たちと酒を飲んだときのことだ。

友人の何人かはすでに会社を辞め、新たな職場に移っていた。すると、その新しい職場はなかなか愉しいという。「オマエも今の会社辞めちゃえよ」。その言葉は魅力的だった。もちろん、移ったからといいって幸せになるかどうかはわからない。でも、わかっているのは、今の調達・購買の仕事はつまらないということだ。

彼は、上司に辞めることを伝えようと決心し、会社の寮の部屋の整理を始めた。

すると――。彼はあるものを発見する。色あせたコピー用紙に書かれた自分の字の書類だった。「入社後の抱負」とその書類には書かれていた。どうも、自分が数年前に入社時に書いたものらしい。入社時のオリエンテーションで書かされたものだ。

彼は少し笑ってしまう。ああ、自分もこんなことを考えていたのか、と懐かしくなった。それは、文字通り「書かされた」ものだった。しかし、そのすべてが嘘ではない。その当時はほんとうにそのようなことを考えていたに違いない。

「世界中をまたにかけて仕事をすること」「社内の人の役に立って、多くの人に幸せを与えること」「自社製品を買ってくれたお客さんから、ありがとう、と言われること」「社会を発展させる製品を生み出すこと」

彼の顔から笑顔は消えていた。その当時は、夢だけにあふれて、現実を知らずに書いたのかもしれないけれど。無知だったから書けた文章かもしれないけれど。その内容と、自分の今の心があまりに離れていることが、恥ずかしかった。昔の自分は、たしかに志を持っていた。だけど、今の自分はなんだ。情けない――。

彼は、寮の一階の自動販売機にビールを買いにいった。

このままだと、なぜか泣いてしまいそうだったから。

彼はテレビを消して、静かな部屋で考えた。「俺って、結局何かから逃げだそうとしているだけじゃないんだろうか」と。「どこに行っても同じじゃないのか? 同じような不満と不平を抱えたまま人生を過ごしていくんじゃないか?」と。

彼の目には自然と涙があふれた。

あれほど泣くまいと決めていたのに。

翌朝から劇的な変化が生まれた、かというとそんなことはない。でも、着実に何かを変えようと、彼は思った。

彼はそもそも調達・購買希望ではなく、営業希望だった。営業とは、お客を幸せな気持ちにすることだ。今の自分は、関わる人すべてを幸せにしているだろうか。答えはNOだった。でも、営業ではない自分がどうやって関係者を幸せにできる? 答えはわからない。でも、何かやってみようと思った。

彼の会社はSAPのR3というERPを使っていて、設計者が調達依頼書を出すときに、それぞれの調達担当者の名前を入れることになっていた。彼は、調達依頼書を出してきた設計者の名前と、調達品をメモしておいた。すると、少しずつだが、面白いことに気づくようになった。

「この設計者は、あるサプライヤーの製品ばかり依頼してくる」「こっちの設計者は、違うサプライヤーの製品ばかり依頼してくる」。それは些細な発見だけれど、大きなことのように彼には思われた。彼は、これまで見えなかったものが見えるようになっていた。

あるとき、彼は設計者が某製品を発注しようとしていることに気づいて、電話してみた。

「○○さん、あの、この製品を発注なさろうとしていますよね」
「そうだよ」
「いや、この製品とコンパチブルのものが倉庫に眠っていて、そっちを使えばタダになるんじゃないかと思って……」
「え、そうなの? ありがとう。他部門が発注しているものなんて気づかないから、助かったよ」

彼は、製品のスペックを把握していたので、他部門が発注したまま余らせていた製品を紹介してあげることができた。こんなことは当然だ、というバイヤーもいるだろう。しかし、このささやかな成功体験は彼を変えるのに十分だった。同等性能納品の紹介をし、それによりコスト低減につなげる。この些細なことが、彼と設計者に一つの絆を与えた。

「お役に立てて嬉しかったです!」。彼の口から自然に言葉があふれた。

そこから、彼は設計者に「おせっかい」を繰り返した。設計者がメールを出してきたり、電話をしてきたりするたびに、情報を与えるのだ。「あれっそれだったら、もっと安いもの知っていますよ」「それよりも、こっちのサプライヤーがいいですよ」

そこから設計者の態度も変化してきた。「えっ。そうなの? これまで誰も調達の人は教えてくれなかったよ。ありがとう。これからすぐ検討してみるわ」。設計者も彼に好意的な反応をしだした。彼ももちろん、この仕事に自信を持ち出した。

ある日のことだった。

彼は、朝パソコンを開くと、妙に間違いが多いことに気づく。発注依頼が多すぎるのだ。しかも、そのほとんどが、間違いだらけだった。

間違いだらけ。自分が担当していない製品の発注依頼ばかりが届くのだ。「最近は、この種の間違いが多い。ERPのエラーかな?」と思った。

しかも、そのエラーがあまりに多いものだから、調達の企画部門が調査を開始した。

設計部門に調査を依頼し、場合によっては正しく発注依頼がなされるような指導も実施するつもりだった。

すると、その調査を実施した調達企画部門の人間が、彼に近寄ってきた。

「お前のところに発注依頼が集中するのは、どうやらエラーじゃないらしい」と彼に告げた。

「どういうことですか?」。彼は訊いた。

「いや、どうもね、設計者がみんなキミにわざと発注依頼をかけているらしいんだ。設計者が、役に立つのはキミだけだ、と思っているらしくてね。キミと仕事したほうが愉しいって言っているらしいんだ」

「えっ……」

「なんか、ある人なんかね。キミとしか仕事したくないってね。そう言うんだって。アイツと仕事するのが愉しいって。そう言われると困っちゃってね」

彼は、その場で「え、いやいや、そんな」と言い、笑顔になりながらも、大粒の涙があふれてきてしまう。

そして、泣いてしまった。

「まあ、担当者はキミ以外にちゃんといるからね。キミに発注依頼を継続してくれ、とは言えなかったけど、嬉しいじゃない。設計者がキミを指名してくれるなんて」

彼はそのしばらく手で顔を覆って、どうしようもなかった。

入社して泣いたのは二回目だった。一回目は、昔の自分の書類を見たとき。そして二回目は……。

もしかしたら、その涙は、変わった自分自身に捧げられていたのかもしれない。

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