Ochunismライブ2022年6月4日

Ochunismのライブに行ってきた。

彼らはいわゆるファンクとPOPSとROCKを足して2で割った(3ではない)特異なジャンルに身を賭している。

さらに私は各種メディアで、Ochunismについて何度も推薦してきた。雑誌でも2021年のベストコンテンツとして挙げた。たとえばこの曲はどうだろうか。

それで今回の渋谷でのライブだった。

おそらくライブ自体や演奏を音楽雑誌的に語ることはできるかもしれないが、ここではOchunismのライブを見た感想を表層批評的に述べたい。

ソウル、ファンク、あるいはブラックミュージックといってもいいが、私なりにいえば、これらの音楽はリズムと反復を重ねて死に至る音楽である。そして、死に至る強度をもって芸術に昇華し、それによってブラック(≒差別され抑圧されるもの)が自らの平癒を試みる。

ただし、その過程において、J-POPと典型歌謡が支配する日本においては単純な勝利をもって終わるはずはなく、同じような試みを重ねるアーティストたちはつねに苦しい闘いを覚悟せねばならなかった。

とくに、サブスクで前年代の音楽が現代の音楽とが並列に配置され、さらにコロナ禍においてリアルな音楽を届けられない現代においては、直接性を特徴とするブラック的なる音楽には危機的だったのではないか。

「INSIDE」(2020年)や「Leave The Gate Open」(2021年)といった内向的な作品は、その繊細さとビバップ的な表現で、むしろ聴く者を追強し、Ochunismがむしろ不自由な時代(≒コロナ禍)において新たな音楽を切り拓いたのではないかと思わずにおれない。

それゆえに、やっと到来した、ライブで彼らを確認できる機会では、彼らの爆発的な音圧によって観る者を驚嘆させる。鮮烈ともいえるバンド・メンバーのコントラストが、音楽のコントラスト以上に、聴く者に印象を与える。

なるほど、このバンドはコロナ禍において、死に接近することで、むしろ存在意義と生き延びるための手がかりを得たのだ。そして、なんと彼らは生き延びた証を明瞭にライブで示したことだろう。

音楽家とは、自らの人生的宿痾を跳ね返すために音楽を創作し、そのうえで自己治癒にいたる。人生において、たとえば大学の同級生と大きく違った道を選んでしまう事実を認識する機会がある。その差異を自らが歌う決別歌によって表現するのは、これまでのアーティストたちも繰り返してきた。

しかし面白いことにOchunismは「戻れない夢に明日を探すのは終わりにしよう」(『anohi』)と、私から言わせれば、悪戯のように付け加える。

思い出を特別視するのではなく、むしろ運命として甘受することで、音楽を使いそれに打ち勝とうとする。

過去という病を、運命という病に転化することで勝利を得る。同じ病ではあるものの、病は音楽で自己治癒される。

その意味で、繰り返したい。Ochunismは不自由な時代(≒コロナ禍)において新たな音楽を切り拓いた記念碑なのである。

ところで、ここまでがライブを見たうえでの賛同的な感想だ。そのうえで、やや批判的なもう一つだけ付け加えたい。

Ochunismの演奏は、エンターテイメントとしての明るさを特徴としている。それはたしかに脱コロナ禍としてはふさわしい。そして、Ochunismは、これからのポスト・ポストモダン下の音楽シーンを担わねばならない。

だが、Ochunismがこんなに私に評価されていいのだろうか。旧時代の音楽を愛好する人間からは、むしろ敬遠されるほどの冒険が求められる。たとえば10代の、音楽的素養のない層に歌われるような真の膾炙が必要ではないだろうか。

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