あれは遊びだったんですか?を考える

以前、働き方改革セミナーを実施しました。多くのセミナーが単に「働かせない改革」になっているので、あくまで、「新たにいかなる価値を生み出すべきか」という観点からお話しました。しかし、少なからぬひとたちは、働き方改革(という名の実質は残業時間削減)によって、行き場をなくしています。自宅駅の近くで、サラリーマンならぬ、フラリーマンとなり徘徊しているようです。

仕事場にはいられない。でも、やることはない、という状況。

日本は、二宮金次郎という究極的な時間の吝嗇家を生んだ国です。とにかくスケジュール帳を会議でいっぱいにしないと生きる価値を見いだせないひとたちが溢れています。かつて、「ワークライフバランス」という言葉が流行しました。これは、生活と仕事のバランスをほどよく保って、充実した生を謳歌しようとするものです。しかし、実際に強制力をもって業務時間が減ったときに、ライフ側で何もすることがないとは、なんたる皮肉でしょうか。

組織としての働き方改革の方向性は、先のセミナーで述べました。個人として、私は、二つの方向性があると思います。

一つは、趣味を仕事にしてしまうことです。社会学者のリースマンは1968年、すでに「やりがいがある仕事に没頭しているひとは、レジャーが少ない」と指摘しています。これは、仕事中毒者というよりも、自分の能力が発揮できる分野で、自己の成長を感じつつ、楽しみながらやっているため、もはや「労働と余暇」という対立構造が存在しないのです。

会社での労働時間が終わったら、次の仕事にかかればいい。兼業が解禁しているなか、調達・購買のスキルで何ができるかを考える時期にきています。機密漏洩にならず、稼ぐ方法があるでしょう。私が現場の調達・購買担当者なら、ただちに、電子書籍を執筆します。

それが無理だったらどうするか。私は、もう一つの方向性は、徹底的な遊びを人生で創ることだと思います。遊びというと、なんだか軽そうに感じます。でも、日本では古来より、茶道や、華道、武道など、余暇伝統は、つねに生き方と関わってきました。自分の存在を揺さぶる可能性のない仕事はおよそ生きがいではないのとおなじく、遊びも本来は、真剣勝負の対象でした。現代では、労働が真剣で、余暇は不真面目と定義されてきました。「あれは遊びだったの」というとき、どこか無責任さがあるように感じられます。しかし、これはもともと間違いです。

浅い遊びではない、深い遊びこそが必要とされているのです。深い遊びとは、数年で、お金が取れるようになるレベル。また、日本で有数になるレベルです。いやほんとうに、個人として、真面目に、どんな深い遊びに挑戦するか決めるタイミングだと私は思います。私は、時間があったら、AIを使った競馬の統計的予想をやってみようと考えています。いや、あと、真面目に写真を学ぼうと思っています。

おわかりでしょう。労働と遊びの境界が溶けているのです。

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